初期反射遅延から空間距離を規定する

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デジタルミックスにおけるエフェクトの感覚論はもはや全肯定される。何をやってもいい。だが、その物理効果について把握しているだろうか。リヴァーブに 100msec を超えるプリディレイを設定するとき、音響的にどのような仮想空間が現出するのか。本稿では一種の思考実験としてリヴァーブの初期反射と音響空間の距離関係を考察する。

残響について

リヴァーブ(残響音)について確認する。発せられた音が空気を伝播して物体に衝突する時、音響的に見て、反射・拡散・吸音の3つの現象が起こると考えられる。空気の振動が物体に伝わることで物体そのものが振動すると、それが新たな音源となり音を発することで反射・拡散が起こり、振動エネルギーが摩擦効果により熱エネルギーに変換されることで音は減衰し吸音が起こる。
反射とは一次反射を指す。一次反射とは音源からの直接音が一度だけ反射して聴き手に届く最短の反射である。これを初期反射 (Early Reflection) と呼ぶ。一次反射は物体に衝突することで二次反射を生み出し、さらに連鎖的に反射を繰り返すことでn次反射が起こる。
拡散とは二次反射以降の反射音の集合を指す。これを後部残響 (Late Reverberation) と呼ぶ。これら初期反射と後部残響を合わせたものを残響 (Reverberation) と呼ぶ。

初期反射の性質

後部残響は二次反射以降の高密度な反射の集合であるため原音の輪郭をなさないのに対し、初期反射はひとまとまりの音として認知できる。音の放射は全方位的であるため、直接音の入射角と聴き手への反射角が等しくなる面の数だけ初期反射は起こる。
音源と個々の初期反射面の距離の差が少ない場合ほど初期反射音は均等に届くためはっきりとした輪郭を持ち、逆に差が大きい場合ほど初期反射音は不揃いに届き、ぼやけていく。この性質は音源が音響空間に対しどのような位置関係にあるかを規定する要因となる。

遅延時間と音響空間距離の関係性

初期反射は最短の反射であることから、原音の発音から初期反射の到達までのタイムラグは音の伝播時間と考えることができる。この初期反射の遅延時間をデジタルリヴァーブではイニシャルディレイ、またはプリディレイと呼ぶ。
遅延時間=音の伝播時間であることから、プリディレイが長いほど直接音が壁にぶつかり反射し帰ってくるまでの伝播時間が長い、つまり空間が広大であることになる。このようにプリディレイの設定値によりデジタルリヴァーブは仮想空間の距離を規定することができる。
この関係を具体的に考えてみたい。1気圧下での音速は気温15℃のときおよそ 340m/s になる。音源と聴き手が同じ位置にあるとすると、音源の発音は 1msec につき0.34メートル進みながら初期反射として戻ってくる。このプリディレイに音速を掛けて1/2したものが初期反射面との距離になる。
次のように公式化できる。
C を音速 (m/msec)、E を初期反射遅延 (msec) とするとき、初期反射面と音源の距離 D (m) は
D=\frac{{E}{C}}{2}
となる。

例題

例えば、一辺の長さのそれぞれ等しい正六面体状のホールで、四方の一面にあるステージの中心でヴォーカルが歌っているとする。話を簡単にするため、このホールはステージと反対側の奥面のみ音を反射する材質だとする。彼に聞こえる歌声のプリディレイが120msec であるとき、このホールの一辺の長さは
\frac{120\times0.34}{2}=20.4
よって20.4メートルとなる。実際には奥行きからの初期反射が届く前に床と背面からは即座に、側面からは60msec の初期反射が先に届き、60msec 〜 120msec の反射が交じり合った音をひとかたまりの初期反射として聴くことになる。

デジタルオーディオへの応用

上記の関係性はそのままデジタルオーディオにも当てはめることができる。ミキシングにおいてヴォーカルに プリディレイ120msec のリヴァーブをかけるのは、その楽曲上で想定している仮想音響空間に20メートル強の奥行きを作るのと同義ということになる。これが何を意味し、どのような効果を生むのか、エンジニアは熟慮する必要がある。
また、リヴァーブによってシミュレートしたい部屋の大きさが事前に判っている場合、上記の式からプリディレイタイムを導くことでより質感を近づけることも可能になる。レコーディングスタジオの測量を行うことでレコーディングした素材に含まれるアンビエンスを逆相処理で消し去ることも、あるいは可能かもしれない。

エフェクトは何をやってもいい。ミキシングに際して曲中に別々のプリディレイを持ったリヴァーブがあるのはむしろ常套手段だ。プリディレイをテンポシンクすることでリズミックに使うこともある。現実の音と2mix は違うし、その利点を活用すべきだ。だが少なくとも、プリディレイと距離の実際の関係性を理解しておけば、アコースティックな楽曲中で「このギターは小さな部屋で鳴っているのにピアノは1000席を超える大ホールで鳴っている」といった不自然な空間処理に悩まされることはなくなる。
本稿は専門的な音響物理のためではなく*1、作曲家がある理解しておくべき音響物理への参考として書いている。現実の反射は例題のように単純なものではないため、初期反射から正確な距離を算出するのはより複雑になる。だが原理自体は同じであり、作曲・ミキシング上での参考値としては充分だろう。リヴァーブのプリディレイと空間距離の相関関係を把握することは、想像上では曖昧になりがちな仮想音響空間を実際の距離として実感し、ミックスにおいて音場をイメージする一つの指針になるだろう。

*1:そもそも僕にそんな専門知識はないです