音楽性人格障害

僕は技術の信奉者である。コンピュータを用いた音楽制作に携わっている以上、デジタルデータには絶対の信用を置いている。対立的概念としての人間的手作業を軽んじるつもりはないし、その意味や重要性も理解しているつもりだ。だが両者を混ぜこぜにしている人間がいるのには辟易させられる。繰り返すがデジタルデータは絶対だ。例えばCDを手作業で梱包しても音は絶対に変わらない。しかし人間が作業を行ったということそれ自体に宿る意味はある。ここで、いや音にも気持ちが伝わって音が良くなるんだ、などという話になるとそれはもう自己暗示である。無い音が出ているなど心霊現象の類だ。このような宗教観の持ち主が技術面に口を出すと実にややこしいことになる。デジタルデータになぜ絶対の信用を置くかというと、そこを不動の基準点とせねば音響的論理演算の観念を一歩も発展させられないからだ。音楽データは気分では変わらない。形而下の物理的原因であればどんな些細なことでも検証するのにやぶさかでないが、心因的・宗教的事由で音が変わると言われても困るのである。波形の同一性を証明しても、チガウ、チガウ、と納得しない。異星人と会話している気分だ。おのれが白いものを黒いものだと言っている事に気付いているのか。
かような了解不能性の妄想を抱く人間には精神機構上の障害があると断じざるを得ない。彼らをここに音楽性人格障害と認定する。彼らは病気だ。病気でなければ無知だ。無知は罪悪だ。