生物は究極的に孤独であり、人間は断絶している。たとえ手と手を取り合っていても、相手の意識に触れることはできない。しかし想像することはできる。そこに人間が人間たる証がある。
音楽とは鏡である、という側面があると思うようになった。音楽を作り手の表現手段と捉えるのは一義的であるが、作り手も同時にまた聴き手であると見なせる。音楽が芸術でありえる理由とは音に宿る想念が受け手へ伝播したとき感情を波立たせたり観念的問題提起を惹起せしめるからであるが、その反応は人によって違う。実に多種多様だ。器楽論的要素を除外した俯瞰で考えると、その原因は音楽に込められた主張ではなくむしろ聴き手の側にあるのではないか。聴楽を通じて自意識の組み換えを行う精神活動の結果こそ我々がそれぞれに感じる音楽の効力の本質であるとすれば、それは音楽という鏡に映った自己との対話であり、人間環境論における音楽のニッチとは、時に他者の意思を伝え、また受動者の自問自答を作り出すきっかけとなる媒介であると言える。媒介としての音楽*1は自身の形を変えることなく我々を変革する存在であり続ける。
我々が音楽を通じて何かを、時に誰かを理解したと思う瞬間があったとして、それは鏡に映った恣意的な自己投影に過ぎぬのかも知れぬ。しかしそれこそが無上に人間らしい行為であり、少なくとも己を知ることは叶うのだ。そして自分の意識を信じることで他者への確定的な信頼を持ち得、初めて肯定的な関係性が生じる。鏡には現実と虚像がいびつに折り重なって映っている。
僕を含めた多くの人がきっと、自分のことをあまり好きでない。でも音楽を好きになれれば、そこに映る自分を好きになれるかもしれない。ずっと何かを探している気がする。

*1:我々の感覚が究極的に主観である以上、本来変性しないはずの媒介が聴こえ方を違えるというのは実に面白い。