意識と時間

カビの生えそうなタイトルだがご容赦。ハードディスクが飛んでからすっかり手許にmp3がなくなってしまった、あれは音楽を聴くモチベーションを下げる体験だった。今はアンビエントやアコースティックばかり聴いている。そんな生活が2週間ばかり続くと、7分を超えるクラブミュージックをシングルで通して聴くのがいやに長く感じるようになった。以前なら7〜8分程度の長さで曲を聴けることが、過不足なく全体像を把握できる最適解のように感じていたのに。人間の体内には時間を計る時計があって、そのゼンマイのスピードは経験を蓄積することによって維持されているのだな。ポップスに耳鳴れた人間にとって7分を超える曲とは、テクノジャンキーと比べてさぞ長く感じることだろう。ちなみに僕の守備範囲であるBPM135〜142辺りなら、音程ほどではないにしろかなり聴き分けることができる。それも弛まぬ日々の聴覚訓練があればこそ、今は少々怪しいだろう。
昔読んだSFに、時間とは我々が認識するような直線ではなくランダムに偏在しており、ユビキタスな時間世界を脳のある部位が観測することによって意識を時系列へ整列している、というものがあったな。存在確率の彼方に消えた彼女を追いかけるために、その部位を破壊して時空間を彷徨する話。ある種究極のロマンスだが、「今この瞬間」と「次の瞬間」が繋がらなくなるのは悲惨だったな。
さすがにそれはフィクションだが、我々が観測によって時間を認識するのならば、その認識の仕方が変化すれば感覚時間の長短も大きく変動するのだろう。これは自覚的にコントロールできる類のものなのだろうか。もし不可能ならば、局時的であれ人間には生理的に決まった音楽ジャンルごとの「聴き手のプロフェッショナル」が存在してしまうことになる。短い曲ばかり聴いていれば長い曲が明らかに冗長に感じるだろうし、逆もまた然り。例えばカデンツの解決の概念を理解するという音楽的訓練によって古典音楽の音程進行により快感を得ることができるように、時間の認識も訓練によってより適した時間感覚を養う必要があるのか。それなら僕のような人間にとって3分以下といった短い音楽を聴くのはそれだけで毒ということになる。7分前後の曲を聴き続ける聴覚訓練によって意識の流れるスピードを整えるのだ。……気が乗らないというか、別の音楽的素養を殺しそうな話だ。いやそこまでシビアな話でもないのか、以前の自分が出来ていたのだから。要は毎日聴くことだな。

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

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