エセ音楽批評なんて聞きたくない

「口コミ」は特にクラブミュージックにとって強大なパブリシティだが、その内容のつまらなさに辟易することが多く、慨歎に耐えない。面白いのつまらないの印象批評をやってる可愛い感想文はともかく、勘違いした評論を音楽への洞察と思い込んだ、目も当てれぬ惨状が存在する。すなわちエセ音楽批評である。僕の言うエセ音楽批評とは、音楽技巧的・あるいはジャンルの形成と発展に関する歴史的見地を持たないにも関わらず、ごたくを並べ立てることです。
エセ音楽批評のつまらなさとはまず、内容が表面的であることだ。「タイトなリズムトラックに絡みつくソリッドなベース、そこに広がるエモーショナルなメロディーライン」といった類のもの。ちょっとばかし横文字的な言い回しで綺麗にまとめているつもりかもしれないが、こんな曲を聴けば誰にでも分かるようなことを書き綴ることに何の意味があるのだろう。そもそも不可視であり限りなく形而上の存在である音楽の「外見的特徴」を説明することは実に空虚だ。そんな空っぽの言葉をいくら積み上げたって音楽の本質は掴めない。
また、僕自身の実体験にこういうことがあった。拙曲を聴いたある知人との会話。
「あの曲きいたよ」
 「どうだった?」
 「良かったよ」
 「それはありがとう。どのへんが良かったの?」
 「(口ごもって)……えーっと、こう、青紫がサーッと一面に広がってく感じが……」
ウソつけ。彼は特に社交辞令抜きの知己なので、純粋に良い曲だと思ってくれての言だろうが、「青紫が〜」のくだりでは内心、取り繕った虚飾の言葉の気持ち悪さに寒気のする思いだった。自曲であるということを差し引き客観的に見ても、その曲はそのような幻想的な曲ではなくもっとラジカルなものだったし、それ以上に、君は君の人生においてそんな一面の群青を見て感動したことがあるのか? 現実に見たことが無くてもいい、その光景を夢想して慄然とした追憶がまざまざと蘇ったのか? その時の彼の言葉はとてもそうは思えないほど薄く虚誕に響いた。どう感じるかは自由だ。でも、だからこそ、借り物の言葉なんて聞きたくない。
自分がどれだけ音楽を蔑ろにしているかなどと夢にも省みず、厚顔に醜悪なごたくを吐き続ける人間の精神を想像するだに背筋が震える。何より我慢ならないのは、その表面的な虚飾の糊塗が感受性を摩滅させ、心の中の音楽を緩慢に鏖殺してゆくことだ。それに気付けないと、音楽は死んでいく。
その曲を聴いて、あなたが今まで生きてきて見聞きし考えてきたことに対し何を与えた? 何を変えた? どんなことでもいい、その衝撃を、感動を、自分だけの言葉で語って欲しい。アーティストが放った一条の光が聴き手を射抜き砕け散った欠片の残照が、また誰かの目に届くように。誰かが音楽を語るとき、僕はそういう言葉を聞きたい。