言葉と音色

アブストラクトにとりとめなく。知人に「言葉の集積と運用」についての話をしたが、その後なんとなく思いついたのが普遍的なテーマのひとつ、文学:音楽において、言葉と音色を共通項として置けるのではないか。こういう思考に没頭する時は白昼夢を見る。心の中でプレゼンを行う*1。相手は偉大なるT先生。
先生が言葉を大事にしていることはよくわかるんですよ。先生もクラリネットをおやりになるのであるいは伝わりやすいかと思うのですが、音楽でいう音色のように考えると僕にはよく理解できるのですよ。そうですね、例えばバンドでナイロンギターをスチールギターに置き換えても楽曲は、まあ成立するでしょう。しかししっくりこない。自分が考え抜いた最適な表現を用いたいといのはこういう気持ちなんではないかと思います。先生が言葉狩りと戦ったのはこのためだと僕は考えています。もっとも、言葉は事由において歴史的・社会的な問題観念を強く持ってしまうから、音色、楽器とは比較にならないほど強い弾圧を受けるのでしょうね。
さあここまで考えると、歴史的・社会的問題観念を持った問題楽器とは何ぞや、となる。すぐに思いつくのは

楽器 素材
三味線 猫の皮
馬頭琴 馬の尾
胡弓 ニシキヘビ
ピアノ 象牙

アレ?論点が言葉狩りからワシントン条約へ横滑りした……。実際、演奏するだけでアムネスティが騒ぎ出すような人権ジューリン差別感イッパイの楽器というのは到底見当がつかない、というか、楽器狩りなんて話をそもそも聞いた事がない。人骨でも削って作った楽器か何かか?とにかく、楽器は表現上の制約を受けることが少なそうなのでその点は恵まれているのだろうか。ヴォーカルは詩があるから文学と同様の問題が発生するだろうが。君が代とか赤い靴とか。それにしても、こう考えるとソフトウェアインストゥルメンツというのは宗教や歴史といった観念から開放されている楽器なのだな。しかしPCには神性も人間性も無いから畏敬の念もまた起こらない。偶像崇拝するにはまず実像が必要だ。社会心理において信仰は心のうちに宿るものではないのだ。みんなが演奏だと信じているもののどれだけがPCで作られているのだろう。欺瞞だ、というより信仰の搾取だ、とこないだDFX EZ Drummerを見て思った。特に結論もないまま終わる。

*1:孤独というなかれ、僕の発想法だ